Balten Seijin の今日のひとこと

いくつかの霊想書の中からその日のお気に入りを載せます

2023-07-01から1ヶ月間の記事一覧

人生の旅とはインマヌエル (=神、我らと共にいます)の神を知ること

人生を旅になぞらえることは、人生を達観することや諦観することではありません。旅路を共に歩んでくださる神を知ることです。このお方に向かって叫びながら生きて行くことです。このお方が、私たちと共に旅をしてくださっているのです。そばにいてくださっ…

裸足で行きなさい

聖書の中に、「履き物を履く」「履き物を脱ぐ」「裸足で」という表現が出てきますが、それには特別な意味があります。履物を脱がせることは名誉の剥奪を、履き物を履かせるとは名誉の回復を意味していました。履き物を脱ぐとは、自分が無に等しい者であるこ…

神はクラウドのヘビー・ユーザー!?

聖書では、雲は常に神と結びついています。雲とは、私たちの個人的な生活の内外にある悲しみ、苦しみ、または摂理的な状況のことでそれらは、一見、神の主権に矛盾しているように見えます。しかし、まさにこうした雲を通して、神の御霊は私たちに、いかにし…

プロセスこそが目標

もしイエス・キリストから強い促しを受け、それに従うなら素晴らしい成功が待っている、と私たちは考えやすい。 しかし、私たちが夢見るような成功を収めることが神のみこころである、と決して考えてはならない。その正反対かもしれないからである。私たちは…

安息日は、私たちが守る日ではなく、私たちが元気になる日

私がキリスト教用語で違和感を覚えるものの一つに、「聖日を守る 」という言葉があります。キリスト者として日曜日の礼拝に出席することが神の栄光をこの地に表すことになる、従って、キリスト者が日曜礼拝に出席することは私がキリスト教用語で違和感を覚え…

闇がなくなるのではなく、闇の中で足元を照らす光

聖書が私たちに教える祝福とは、何かおとぎ話のように私たちが思い描く幸せが与えられるというようなものではありません。聖書は、私たちの人生に罪があり、 失敗があり、嘆き悲しみがあり、 そして別れや絶望さえあることをそのまま描き出します。 太陽は昇…

神の国では、初心者、上級者、達人の区別はない。

人は、何ができるか、何をしたか、何を知っているかによって、自分自身を評価しようとし、また他の人を心の中で蔑んだりします。 家柄や経済力、 社会的地位などによって高慢になる人がいる一方、 そのことで自己卑下に陥る人もいます。 しかし、聖書は言い…

十字架(Cross)でクロスしたもの

徐々に見ている群衆の数も減っていきました。兵士たちはイエスの服を賞品にして賭けをし、女性たちは泣きながらそれを見ていました。一部の司祭や律法学者たちも留まり、彼を嘲笑しました。 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十…

三者三様の十字架

イエス様は疲れ果てていたに違いありません。彼は、容赦のない鞭打ちと多くの虐待とともに、眠れずにいくつかの試練に耐えなければなりませんでした。そして今、ローマの伝統に従って、彼は自分の十字架、少なくともその横木を処刑場まで運ばなければなりま…

永遠の世界への扉が開く時はいつ? 今でしょう!

今、自分の理想とする自分であることができず、苦しんでいる方がいらっしゃると思います。しかし、この時こそ、私たちが生きてきた「自分」という閉じた世界に穴があき、キリストの永遠の世界との扉が開くのです。 絶望してはなりません。永遠の世界から力強…

誰のせい?

イエスの死に責任があるのは誰ですか? 私たちキリスト教徒が反ユダヤ主義で非難されることが多いのは、その責任をユダヤ人、特にユダヤ人の指導者に押し付けようとしている(と言われている)からです。しかし、イエスの十字架に対する責任は、どれか一つの…

ためらい

ユダヤの総督であるポンテオ・ピラトは有能な行政官でしたが、ユダヤ人の良心の呵責に対して鈍感なことがありました。福音書では、彼が正義と保身の間で引き裂かれ、ジレンマの角に突き刺さされているのが描かれています。一方では、彼はイエスが無実である…

私の隣人とは誰か

「隣人を自分のように愛しなさい」 (マタイ22:39)と福音書は言っています。しかし、隣人とは誰のことでしょう。私たちはよく「私の隣人って、この地球で一緒に住んでいるすべての人のこと、特に、病気の人とか飢えている人とか、死にかけている人とか、困っ…

イエスの勇気と誠実さ

大祭司としてサンヘドリンの集会を主宰したカヤパは、イエスがメシアであるかどうかについて直接イエスに尋問した。これに応じてイエスは、「わたしがそれです」と断言しただけでなく、ダニエル7章と詩篇110篇1節の両方を引用して、それらの預言が自分のうち…

キリストの不思議中の不思議

キリストは実に人を救うためには奇跡を行いえましたが、自己(みずから)を救うためにはこれを行いえませんでした。人をたすけるための異能を備えしイエス・キリストは、自己を救うためには全然無能でありました。 弱き者を救わんがためには風をも叱陀してこれ…

隠された宝を見つけること

イエス・キリストは、 神の国とは 「畑の中に隠された埋蔵金」「高価な真珠を見つけた商人」 のようなものだと言われました。 銀行などがない時代、 貯まった硬貨は壷に入れて地中に埋め、盜まれないようにしていました。古代イスラエルでは、 埋蔵金は土地…

神に信頼すことが息をするのと同じくらい簡単になる?

イエスはこの聖句の中で、御霊を持つ人々のために行動規範を定めています。神がすべてを支配しているという概念で心を常に満たしておくようにと彼は勧めています。つまり、弟子は完全な信頼と、熱心に尋ね求める態度を維持しなければなりません。 神はそこに…

夕あり朝あり

暗黒をもって始まり、光明をもって終わり、絶望をもって始まり 希望をもって終わる。神の行為にすべてこの順序あり。希望を約して失望に終わらしむるがごとき 栄光の冠(かんむり)を戴きて後に恥辱の死をとぐるがごとき、平和と繁栄とを宣言して戦乱と貧困と…

正義は他人に求めるのではなく自分があり続けるもの

「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頰を打つ者には左の頰も向けなさい。」マタイ 5:39 この聖句は、クリスチャンであることによって卑しめられることを表しています。自然界では、もし反撃しなければ、それはその人が卑怯者だからです。しかし…

神の国では競争はない

イエスは神によって取り出されました。もっとよく一言、つなら、神によって選ばれました。イエスは選ばれた方です。神は永遠から、最も尊いみ子を世の救い主とするために選ばれました。選ばれるということは、特別の関係を表します。すなわちかけがえのない…

2つの秘訣

新約聖書では御霊の実は“キリストに似る”ことです。(イザヤ書 5 章を参照。ガラテヤ 5:22–23。コロサイ 1:10。)では、実り豊かな秘訣は何でしょうか? まずはブドウの木の剪定です。神は不屈の庭師です。神は、より多くの実を結ぶように、実のなる枝をすべ…

キリストの遺したもの

イエスは再び彼らに、悩んだり恐れたりしないようにと言われます。その代わりに、イエスは彼らに「シャローム!」=「平安があるように!」と言われました。 マシュー・ヘンリーはいつもの魅力でこのことを次のように書いています。 キリストがこの世を去ろ…

恵みの世界

恵みのない宗教は必ず人を高ぶりや傲慢へ導きます。そのうちにはいつも妄想があります。その妄想は「信仰心のある自分は、信仰心のないあの人よりずっと優れている」という高慢な思いに現れます。しかし神のみわざがなされる恵みの世界では、人は謙遜にされ…

無数の松葉杖か一つの土台か!

価値観が揺れ動き、「真理」を相対化する現代にあって、この世はすべてのキリスト者に対して「神以外の何か別の助けを受け入れよ」という圧力をかけてきます。私たちが忘れてならないのは、旧約聖書の神は依然として私たちの生ける神だということです。イエ…

傷ついた癒し人

誰も傷つくことから逃れられません。肉体的にであろうと感情的にであろうと、精神的にであろうと霊的にであろうと、私たちの誰もがみな傷を負っています。大切なことは、恥すかしい思いをしないですむように「傷をどうやって隠せるか」ではなく、「私たちの…

「時が癒す」の本当の意味

「時が癒してくれるさ」とよく人は言います。それが、負った傷を時とともに忘れて、何事もなかったかのように生きていけるようになるという意味であるなら、「時か癒してくれる」というのは正しくありません。それは真の癒しではなく、現実を無視しているに…

ビジョンが現実になる

「熱した砂地は湖となり」イザヤ書 35:7 私たちは、それが実際に現実になる前に、常に何かについてのビジョンを持っています。ビジョンが現実でもまだそれが実現に至らない時、サタンが誘惑を持って近づいて来ます。すると私たちは、「こんなこと、続けよう…

神は常に我が力の足り過ぎんことを慮る

われはつねにわがカの足(た)らざらんことを恐れ、 神はつねにわが力の足り過ぎんことをおもんぱかりたもう。われはわれ強からざれば弱しと思い、神はわれ弱からざれば強からざるを知りたもう。われはわが力を増さんと欲し、神はわが力 を殺(そ)がんと欲した…

父の涙

放蕩息子の物語に出てくる父親は、大変苦しみました。下の息子が落胆し、人々からは嫌われ、ひどい目に遭うようになることを知りながらも、父親は彼が去って行くのを見送ったのでした。父親はまた、上の息子が怒りによって憎悪を深めるのを目の当たりにしま…

イエスの涙と鞭、計算された暴力

マルコは、イエスがエルサレムに入るとすぐに、何か行動を起こす前に神殿に行き、「すべてを見回した」(11節)と語っています。 それから、遅くなったので、彼と十二人は宿を取るために街の外に出ました。 このようにしてイエスは、自分が見たもの、そして彼…