Balten Seijin の今日のひとこと

いくつかの霊想書の中からその日のお気に入りを載せます

プロセスこそが目標

 もしイエス・キリストから強い促しを受け、それに従うなら素晴らしい成功が待っている、と私たちは考えやすい。 しかし、私たちが夢見るような成功を収めることが神のみこころである、と決して考えてはならない。その正反対かもしれないからである。私たちは、自分が願ったとおりの特定の結末に向かって、神が私たちを導いていてくださる、という考えをどこかで持っている。しかし、そんなことはない。願ったとおりの結末に至ったとしても、それが重要なのではなく、たまたまそうなったにすぎない。私たちが途中経過と呼んでいるものこそ、実は、神が到達目標とみなしておられるものだからである。
 私に対する神のみこころを、私はどのように思い描いているだろうか。神のみこころとは、今この瞬間、私が神とその御力に頼ることである。たとえ私が、人生の荒波の真っただ中にあっても、冷静沈着のままでいることができるなら、それこそが神のみこころである。神は、何か特別なゴールに向かって働いておられるわけではない。神のご目的は途中経過にある。すなわち、岸が見えなくても、 また成功の見込みもなく、目標がどこにあるかわからなくても、波の上を歩いておられるイエスが見えるから大丈夫なのだ、という確信を持つことである。神に栄光をもたらすのは、結果ではなく、途中経過なのである。

 神が私たちを訓練されるのは、やがて来る時のためではなく、今の時のためである。神のみこころは、将来起こる何かのためではなく、今この瞬間のために働く。神に従ったらどうなるか、ということは私たちにはどうでもよいことである。後のことを考えていたら、私たちは誤りを犯す。人は訓練や備えと呼ぶが、神はそれを最終目的とみなしておられるからである。

 神が願っておられるのは、混沌とした私の人生の荒波の上を、主なら歩くことができると、今この瞬間、私が理解することである。私たちが将来のことを到達目標とすると、現在進行中のことに注意が十分いかなくなってしまう。しかし、従順であることが目標そのものであることに気づくと、私たちに訪れる一瞬一瞬がどれほど尊いものかが分かるのである。

 

(限りなき主の栄光を求めて オズワルド・チェンバース 尾崎富雄訳)