Balten Seijin の今日のひとこと

いくつかの霊想書の中からその日のお気に入りを載せます

裸足で行きなさい

 聖書の中に、「履き物を履く」「履き物を脱ぐ」「裸足で」という表現が出てきますが、それには特別な意味があります。履物を脱がせることは名誉の剥奪を、履き物を履かせるとは名誉の回復を意味していました。履き物を脱ぐとは、自分が無に等しい者であることを表す行為だったのです。
 マタイの福音書によると、イエス・キリストは、ご自分の弟子たちを伝道に遣わされるとき、金銭を持たないだけでなく、裸足で行けと命じておられます。それは、何の名誉もない者、無に等しい者となり、人の憐れみに頼らなければ食べる物を得ることができない状態で伝道に行けということです。
 しかし、キリストはそのような弟子たちに汚れた霊を制する権威をお与えになったと言います。
霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すためだったと。
 彼らは、苦しみの中で倒れ、絶望の中にある人たちのところに遣わされました。そして、キリストの権威によって悪霊を追い出し、病の人々を癒し、神の国イスラエルにやって来たこと、神ご自身がこの地にやって来たことを広えていきました。

 遣わされた者とそれを受け入れる者が同じ苦しみ、同じ悲しみを経験する。しかし、そこにキリストの権威が臨み、天からの圧倒的な恵みが降り注いだと聖書は言います。
 キリストは、弟子たちを裸足で伝道に遣わされましたが、十字架に架けられる前夜、最後の晩餐のとき、自ら弟子たちの足の裏を丁寧に洗い、手ぬぐいで拭いて行かれるのです。そしてついに、履き物だけではなく、全ての着物を剥ぎ取られ、最も低められ、卑しめられた者として、十字架の死を迎えられました。
 遣わされた者、それを受け入れる者、そして、遣わした方が一つとなる。遣わした方の権威が、 この地に満ち溢れる。キリストはこれを願っていらっしやるのではないでしょうか。
 今、私にとって、あなたにとって、裸足で遣わされるとは、どのようなことでしようか。この方と一つになるとはどのよ一つなことでしょうか。

 

(366日元気が出る聖書のことば 岩本遠億)