キリストは、あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈れと言われたが、そのような愛は、私たちからは出てこない。私たちの愛は、自分の都合を基準とする愛だからである。
少し嫌なことがあるだけで人を許せなくなる私たち。そんな私たちの中にキリストの御霊が入ってきてくださる。ご自分を十字架に釘付けにする者たちのために祈り続けられたキリストの御霊が私たちの中で祈り始める。
私たちが自分では祈り得ない祈りを、キリストの御霊が祈ってくださる。その祈りが私たちの祈りとなる。
その時、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全であれ」と言われたキリストの御思いが私たちの中に行われる。
私たちを完全にするのは、私たちの祈りという行為ではない。キリストの御霊が私たちの中で、父なる神様の完全な業を行われるのだ。 ここに私たちの希望がある。
私たちは祈ろう。「キリストの御霊よ。私の中に満ちてください。私の中で、私が祈り得ない祈りを祈ってください。その祈りを私たちに祈らせてください。」ここに主の御霊による自由がある。
(366日元気が出る聖書のことば 岩本遠億)