クリスチャンは神はご自分に属する者を導いてくださるということを前提にして生きています。実際、神のリーダーシップを期待するのは神の子どもたちの権利です。しかし神は備えられたご計画を前もって詳細にすべて知らせた上で導くということをなさいません。私たちは時にもっと詳しくはっきりと知りたいと切望しますが、神がそれを隠されるのには理由があります。もし神がそのご計画の詳細を伝えるならば、私たちは愚かにもイエスご自身に焦点を合わせる代わり計画に注目してしまうからです。神ご自身にではなく、神が備えてくださる計画に生活の基盤を置こうとするでしよう。キリストはご自身の方法に従うように私たちを召されたのではありません。ご自身に従うように言われたのです。キリストに従うこととキリストの方法に倣ならい従っていくこととは些細な違いであるように感じます。しかしその道に従うのと、その道に導いてくださる方に従うこととの間には大きな違いがありす。
最優先すべきことは何でしようか 。私たちのなすべき最も重要なことはキリストを知ることです。キリストを個人的に親密に知る知識でない限り、どんなに良い物であっても欲求不満がつのり、不毛で、満たされることがありません。しかし神との親しい日々、とだえることのない交わりを保つ人生には実りがあり、喜びに満ちているのです。
(エマオの道で デニス・キンロー)
キリスト教を、「キリスト道」 と呼ふ人たちがいます。キリストを信じるとは、キリストが指し示す道を「歩むこと」 だからです。聖書の中に「この道」と書かれているところもあります。私たちが歩むべき道とは何でしようか。聖書は言います。それは 「キリストの愛のうちである」と。「キリストの愛」のうちを歩む。私の愛のうちではない。私の親切でもない。私の思いを伝えることでも、自分の愛の思いを貫くことでもない。
「自分」ではなく、「キリスト」。私たちが「私」「自分」と言っているところ、思っているところを「キリスト」で置き換えてみる。自分が何をしなければならないか、何をしてはいけないかが分かって来る。そして、それ以上に、キリストがこんな自分をどれ程愛してくださっているのか、赦してくださっているのかが分かってくる。溢れるように愛を注ぎ、満たしてくださる。
キリストが溢れるように満たしてくださるから、この愛の中を歩むことができる。
「自分, が「キリスト, で上書きされる。隣人、友人を尊んで生きる者へと造り変えられて行くだろう。いっかキリストを映す者に変えられて行くだろう。
(366日元気が出る聖書のことば 岩本遠億)
Where our individual desire dies and sanctified surrender lives. One of the greatest hindrances in coming to Jesus is the excuse of our own individual temperament. We make our temperament and our natural desires barriers to coming to Jesus. Yet the first thing we realize when we do come to Jesus is that He pays no attention whatsoever to our natural desires. We have the idea that we can dedicate our gifts to God. However, you cannot dedicate what is not yours. There is actually only one thing you can dedicate to God, and that is your right to yourself (see Romans 12:1). If you will give God your right to yourself, He will make a holy experiment out of you—and His experiments always succeed. The one true mark of a saint of God is the inner creativity that flows from being totally surrendered to Jesus Christ. In the life of a saint there is this amazing Well, which is a continual Source of original life. The Spirit of God is a Well of water springing up perpetually fresh.
私たちの個人的な欲望が死に、聖化された明け渡しが生きるところ。イエスのもとに来る際の最大の障害の一つは、私たち自身の個人的な気質の言い訳です。私たちは自分の気質と自然な欲望をイエスのもとに来ることの障壁にします。しかし、私たちがイエスのもとに来たときに最初に気づくのは、イエスは私たちの自然な欲望にまったく注意を払わないということです。私たちは自分の賜物を神に捧げることができるという考えを持っています。しかし、あなたは自分のものではないものを捧げることはできません。あなたが神に捧げることができるのは実際にはただ一つであり、それはあなた自身に対するあなたの権利です(ローマ12:1を参照)。神にあなた自身の権利を与えるなら、神はあなたを用いて聖なる実験をするでしょう—そして彼の実験は常に成功します。神の聖徒の唯一の真のしるしは、イエス・キリストに完全に明け渡すことから流れる内なる創造性です。聖徒の生活には、この驚くべき井戸があり、それは独創的な生命の絶えることのない源です。神の御霊は、永遠に新鮮な水が湧き上がる井戸です。
(My Utmost for His Highest, Oswald Chambers)翻訳 Bing Translator+Baltan Seijun