サウロの回心のイントロの所まで(使徒9:9)まで読んだ。
突然、天からの光に打たれ、目が見えなくなり、地に倒れ、天からの声を
聞いた。その声は同行者たちにも聞こえた。
「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられます。」
サウロはダマスコの町に入り、3日間目が見えず、飲み食いしなかった。パウロ(=サウロ)の回心の記事は新約聖書の中でも突出している。他に匹敵する事例を思いつかない。それにしても何故、これほど手が込んでいるのか。
サウロの回心の直前には、ピリポの働きが(使徒8章)記されている。ピリポはエチオピアの宦官にも、サマリアの魔術師シモンにも、信仰に導いたら、或いは悔い改めに導いたらすぐにバプテスマを施している。逆に言うと、エチオピアの宦官にも、シモンにも3日間の目が見えず飲み食いできなかった中間期間はない。
一つ考えられるのは、サウロには、近くに導く先輩クリスチャンがいなかったから、という理由が挙げられるかもしれない。サウロにはやがて、アナニアが備えられ、遣わされて来るが、神の方法は人を用いるということなのだろう。アナニアも用いず、天からの遠隔地操作でダマスコ途上でサウロを信仰に導いてしまうことは、神のなさり方でない。
サウロの回心を思う時、導火線となったステパノの殉教(使徒7章)、直接手を置いて祈るためにサウロのところに行ったアナニアの勇気、これらが光っている。これが神の御業なのだ。私も神にこのように用いられたい。