「信じる」と一言に言いますが、その内容や実態は、信じる者と信じられる者との関係性によって大きく変わります。
親が子供を信じるという時、それは、子供が将来成功 すると自分に言い聞かせることや、子供が悪いことをしていないと自分に言い聞かせることを意味します。夫を信じるとか、自分を信じるというのも同様です。 自分で自分を説得しようとする心理がそこにあります。
ところが、子供が親を信じるというのは、そのような 自己説得の心理の働かない心的な状態なのです。泣いた 時には抱きかかえてくれ、可愛いと言っては抱きしめてくれた。お腹が空いたら食べさせてくれ、汚い体を洗ってくれた。 手をつないで歩き、疲れた時には背負ってくれた。そのような否定できない温かい体験をとおして形 作られた親に対する思い、親の真実への応答が「親を信じ る」ということなのです。一般に子供は、自分が親を信じていると意識することすらありません。
「信じる者は救われる」と聖書は言いますが、そこにお ける「信じる」とは、自己説得の心理が働くものではなく、否定できない温かい関係に基づくものなのです。
イスラエルの父祖アブラムは、「あなたを祝福する」と いう神様の声を聞いて、住み慣れた土地と家族を離れ、神様の示す地にやって来ました。 しかし、彼は子どもが生まれないまま、老人になってしまいます。神様は、「あなたとあなたの子孫にこの地を与える」と約束なさいますが、アブラムにはそれも虚しく聞こえるだけです。
自己説得が限界に達したとき、神様は、アブラムを訪 れ、天幕の外に連れ出し、満天の夜空をお見せになります。そして言われました。 「あなたの子孫はあのようにな る」と。神様の温かいお心に触れ、アブラムは神様の言 葉を否定することができなくなりました。
聖書は言います。「アブラムは主を信じた。主は、それを彼の義と認められた」(創世記15:6) と。それまで主 を信じていなかったアブラムが、この時、初めて主を信じたのだと。
自己説得では平安も確信も得られない私たち。そんな私たちのところを訪れ、心に触れてくださる神様がいる。否定できない温かな臨在で包んでくださる方がいる。この方を待ちたいと思います。
(366日元気が出る聖書のことば 岩本遠億)