Balten Seijin の今日のひとこと

いくつかの霊想書の中からその日のお気に入りを載せます

揺るがない拠り所、父となる どうやって?

 スコットランドの海岸に建つある古城に有名な地下牢があります。その牢は固い岩盤をくりぬいて造られたもので、ボトル型地下牢と呼ばれています。深さは一・八メートルで、入り口の部分は人がやっと通り抜けられるくらいの穴が開いています。地下牢の下の方は円錐形にくり抜かれています。てっぺんまでは恐らく三メートルはあるでしょう。丸くなった壁は下に向かってえぐられていて、一番底の直径が最も大きくなっています。フラスコのように円錐形に広がった部分はとても深くて、入り口のところまで手が届きません。ですからいったんこの地下牢に落とされるとだれも逃げ出すことができなかったのです。

 城主はこの地下牢に投獄した囚人たちがたちまち狂気に陥って行くことに気づきました。ところが例外が一人いたのです。その囚人は何週間もこの地下牢に閉じ込められたのに、なお正気を失うことがありませんでした。看守たちは彼を引き上げてその理由を探ろうとしました。驚いたことに秘密は彼がポケットに入れていた六つの小石にあったのです。

 囚人の話によると、円錐形のような地下牢とそこにある暗やみは正気を支える拠り所を一切奪いとろうとしました。そこで彼は正気を失いそうになると、隠し持っていた小石を一度に一つずつ片方のポケットから出して、もう片方のポケットに移しながら数えていったのです。手もとには六つの小石がありました。自分の外側に変わることのない拠り所が確保されたので正気を失わずに済んだというのです。彼の精神が絶え間なく押し迫る悪夢にさいなまされても、自分の外側に確かな拠り所を持っていたので、そこで心が安らぐことができたと説明しました。

 多くの現代思想の主張とは反対に自我を支える鍵は人間の内側にはないということです。自分の外側に揺れ動くことのない永遠なる拠り所を持たなければ、私たちはすぐにさまよい出て、現実との繋がりを失ってしまいます。このことから考えてみても、私たちが他者との関係に生きるように造られていることがわかります。その絶対的な他者こそ神であられ、私たちをお造りになった方です。おそらくこれがイスラエルの民が神に「わが岩」と好んで呼びかけた理由だと思います。預言者イザヤはこの岩と心を主に向ける者が持つ全き平安(イザヤ二六・3)とを重ね合わせて語っています。私たちには揺らぐことのない拠り所が必要です。もし私たちがキリストを心に受け入れるなら、キリストのうちにその拠り所を持つことができるのです。

 

  On the coast of Scotland stands an old castle that contains a remarkable dungeon. It was cut down into solid rock and is called a bottle dungeon. The neck is a vertical shaft six feet deep and wide enough to drop a man through. Below the shaft is the dungeon, cut out in the shape of a triangle. It is perhaps ten feet across at the top, and the dungeon’s circular wall is slanted inward to a point at the bottom. The bottle part is too deep for a person ever to reach the neck. The result is that no one escaped after being dropped into it.

  The masters of the castle found that all prisoners placed in this dungeon quickly went insane. Except one. That one prisoner was able to retain his sanity even though he was incarcerated there for several weeks. His captors drew him out and sought to discover his secret. To their surprise they learned that it lay in six pebbles he had in one of his pockets.
  The prisoner explained that the circular dungeon and the total darkness left him with no unchanging point of reference. When he felt his mental powers threatened, he would count his pebbles by moving them one at a time from one pocket to the other. There were always six. With that unchangeable point of reference outside himself, he was able to keep from losing his mind. When his existence seemed an unending, unrelenting nightmare, there was one point of order external to himself, and his sanity rested on that.

  Contrary to much of modern thought, the key to the self is not in the self. Without an external point of reference that will not move, we simply wander and lose our touch with reality. This is yet another evidence that we are made to relate to an Other. That Other is the God who made us. Perhaps that is why Israel loved to call their God their Rock. Isaiah spoke of that Rock and of the perfect peace of the one whose mind is stayed on him. We need an unmoving center. We have one in Christ if we will accept him as such. 

(エマオの道で デニス・キンロー/This Day With The Master, Dennis Kinlaw)

 

 家に着いたら、何をしますか。放蕩息子の譬え話の二人の息子たちは、両方とも父親のもとに戻ってきましたが、 さてそれからどうなるのでしょう。答えは簡単です。二人とも、それぞれ父親にならねばならないのです。息子は父親に、娘は母親にならねばならないのです。神の子どもであるということには、 成長して神と似たものとなるということが当然含まれています。イエスはこのことをためらわずにおっしゃいました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(マタイ 5:48、ルカ6:36)。でも、どのように?それは、父なる神が私たちを家に歓迎してくださるのと同じように、私たちも、見失っていた兄弟姉妹を家に歓迎することによってです。

(今日のパン、明日の糧 ヘンリ・ナウエン)