Balten Seijin の今日のひとこと

いくつかの霊想書の中からその日のお気に入りを載せます

モーセの律法を通しては…できなかった…こと

モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」

使徒の働き13:38-39、新改訳2017)

 

 第一回伝道旅行中、ペシディアのアンティオキアで、安息日ユダヤ教の会堂の中でパウロが語った長い説教の一部である。今朝読んでいて、「モーセの律法を通しては義と認められることができなかった」の部分が引っかかった。

 手元の注解書によると、モーセの律法はもともと「義とするため」という趣旨のものではない、というようなことが書いてあった。そうだと思う。ガラテヤ書によると

「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」(ガラテヤ3:23,24)とある。

 私たちは、キリストにもこの律法がもっていた「監視」と「養育係」の役割しか見出さない愚かを犯さないようにしなければならない。キリストは実に、私たちを義とし、罪から解放するために来られたのだ。

 使徒の働きのパウロの説教に立ち返ると、キリストにある、義とし解放する力はどこから出てくるのか。それは、使徒の働き13章に繰り返し(30、33、34、37節)述べられているイエスの復活である。罪の力である死の中に一度捕らわれたが、そこから自ら甦ったことによって、キリストは解放者となられたのだ。

 律法の閉じ込める力とキリストの解放の力。その根拠となるキリストの甦りを覚えて今日の一日を過ごしたい。災禍のために苦しんでいる方々にも、戦火の中でおびえている方々にも、キリストの復活による慰めを祈りつつ。

真理は楕円である、月はほぼ真ん丸である

「真理は円形に非ず楕円形である。一個の中心の周囲に画かるべき者に非ずして二個の中心の周囲に画かるべき者である。恰も地球其他の遊星の如く、一個の太陽の周囲に運転するにも係わらず、中心は二個ありて、其形は円形に非ずして楕円形である……楕円形は普通に之をいびつと云ふ、曲がった円形である……宗教も円形に非ずして楕円形である。其中心は一個に非ずして二個である……宗教は神と人とである。神のみではない、亦人である。人のみでない、亦神である。……キリストは神であったて亦人である…其実際的方面に於いて宗教は慈愛と審判である、愛と義である。愛のみではに亦義である。義のみではない亦愛である。一中心ではない二中心である。円形ではない楕円形である」

(『内村鑑三全集』岩波書店 Vol.32、p207以下)

 

 内村鑑三についての本は、私の知る限りにおいてでさえ、2023年以降で3冊出版されている。出版順にならべると

1. 関口安義『内村鑑三 闘いの軌跡』信教出版社、2023年9月

2. 小原信『この星の時間 令和版内村鑑三論』新潮社、2024年4月

3. 鈴木範久『内村鑑三問答』信教出版社、2024年7月

 

 冒頭の文章は、このうち2番目の小原信著『この星の時間ー令和版 内村鑑三論』からの引用である。小原はこの引用の少し前に次のように記している。

 「内村にとり、生きるというのは、『二つの世界』を共存させて生きることでした。こことあそこ、いまとかつて、日本とアメリカ、イエスと日本、夢と現実などの二つを、いつも同時に生きるという、かれの生き方はものすごく緊張を要することであったにちがいありません。」

 

 今年も中秋の名月は素晴らしく美しかった。あのお月様があきらかな楕円では興ざめするだろう。真ん丸お月様であってほしいと思う。しかし、実際には月は正球であるわけではなく、表面もクレーターだらけだ。しかし、それを遠くから眺めると、人間の目には真ん丸に見え、それが美しい。真理も、自分の中には二つの中心を持ちつつ、客観的に見るときには、それがほぼ真ん丸に見えるくらい遠くから見る視点が必要なのではないだろうか。

 

 

 

サウロの活躍の脇役たち

 サウロの回心の記事の続きを読んだ。今まで何度ここを読んだかわからない。しかし、今回は不思議なことが起こった。パウロ(=サウロ)自身の身の上に起きたことにはほとんど私の関心が向かなかったのだ。

 その代わりに、神様とアナニアのやり取りに非常な緊迫感を覚え、そこがリアルに心に迫って来たのだ。

 また9:26には、パウロエルサレムの弟子たちの仲間に入ろうとしたが、彼らがパウロを信ぜず、恐れて、仲間に入れようとしなかったことが記されている。そこに登場したのがバルナバである。

 「しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き……」(9:27)とある。あぁ、なんと美しい一句よ!

 キリスト教は、パウロやペテロや他の使徒たちによって担われてきた部分が大きかったことは事実であろう。しかし、アナニアが、バルナバがいなければ、主の働きが進まなかったことも事実。。

 彼らは、実に他人ができない貴重な役割を忠実に果たした。ならまほしアナニア、ならまほしバルナバ

サウロの回心の脇役たち

 サウロの回心のイントロの所まで(使徒9:9)まで読んだ。

突然、天からの光に打たれ、目が見えなくなり、地に倒れ、天からの声を

聞いた。その声は同行者たちにも聞こえた。

 「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられます。」

 サウロはダマスコの町に入り、3日間目が見えず、飲み食いしなかった。パウロ(=サウロ)の回心の記事は新約聖書の中でも突出している。他に匹敵する事例を思いつかない。それにしても何故、これほど手が込んでいるのか。

 サウロの回心の直前には、ピリポの働きが(使徒8章)記されている。ピリポはエチオピアの宦官にも、サマリアの魔術師シモンにも、信仰に導いたら、或いは悔い改めに導いたらすぐにバプテスマを施している。逆に言うと、エチオピアの宦官にも、シモンにも3日間の目が見えず飲み食いできなかった中間期間はない。

 一つ考えられるのは、サウロには、近くに導く先輩クリスチャンがいなかったから、という理由が挙げられるかもしれない。サウロにはやがて、アナニアが備えられ、遣わされて来るが、神の方法は人を用いるということなのだろう。アナニアも用いず、天からの遠隔地操作でダマスコ途上でサウロを信仰に導いてしまうことは、神のなさり方でない。

 サウロの回心を思う時、導火線となったステパノの殉教(使徒7章)、直接手を置いて祈るためにサウロのところに行ったアナニアの勇気、これらが光っている。これが神の御業なのだ。私も神にこのように用いられたい。

目の前のことへの集中

 ルーマニアの音楽家セルジュ・チェリビダッケミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団を率いてシカゴを訪れた年、私は風変わりなオーケストラ指揮者から注意を払うことについての教訓を学びました。チェリビダッケは、ほとんどのオーケストラが4回で済むところを、毎回の公演前に12回から18回のリハーサルを要求するため、彼と仕事をするオーケストラはほとんどありませんでした。彼は音楽に対して東洋的なアプローチを主張し、他の指揮者やオーケストラによる「理想的な」演奏を再現することよりも、その瞬間の音楽との魅惑的な出会いを創り出すことに努めています。

 チェリビダッケが初めて米国を訪れたのは71歳の時で、5年後に私が彼の演奏を聴いたとき、指揮台に上がるのに助けが必要でした。彼はコンサートで馴染みのある曲を選びましたが、それはまったく普通とは違いました。彼は作曲家によるテンポの指示を無視し、ムソルグスキー展覧会の絵を通常の2倍の長さに引き延ばしました。フレーズを一つずつ検討した結果、彼は、その部分を曲の進行に組み込むよりも、特定の部分の音色を引き出すことにずっと興味があるようでした。彼は演奏というより瞑想のように音楽にアプローチしました。

 彼の音楽に集中すると私たちの体そのものが反応するのです。オーケストラ ホールで、私は前かがみになり、頭を左右に動かし、両手を耳の後ろに当て、目を閉じました。シモーヌ・ヴェイユは、詩人は現実のものに強い注意を向けることで美に出会う、と言っています。恋人も同じです。私は内なる生活の中で、神と共に同じようなことができるだろうか。私は常に新しい洞察や新しい真実を探す必要はない。「最もありふれた真実も、それが魂全体にあふれるとき、それは啓示のようなものだ」。

 よく考えてみると、私は人生を一連の瞬間としてではなく、連続したものとしてとらえる傾向があることに気づきました。私は自分の時間を管理し、目標を設定し、その達成に向けて前進します。電話や予定外の出来事は、不快な中断と見なします。イエスのスタイルとはなんと違うことでしょう。エスは、他の人、つまり中断によって自分の毎日のスケジュールを決めることが多いのです。ローマ軍将校であろうと、血を流している名も知らぬ女性であろうと、目の前にいる人にすべての注意を払いました。そして、野の花、小麦の収穫、ブドウ園、羊、結婚式、家族といったごくありふれたものから、永遠に残る精神的な教訓を引き出しました。

 

 

 I learned a lesson about paying attention from an eccentric orchestra conductor, a year when the Romanian musician Sergiu Celibidache paid a visit to Chicago with his Munich Philharmonic. Few orchestras would work with Celibidache because he demands twelve to eighteen rehearsals before every performance, compared with four for most orchestras. He insists on an Eastern approach to music: striving not so much to recapitulate an “ideal” performance by some other conductor and orchestra, but rather to create an engrossing encounter with music at the moment.

    Celibidache made his first trip to the U.S. at age seventy-one, and when I heard him, five years later, he needed assistance mounting the podium. He chose familiar pieces for the concert, but, oh, what a difference. He ignored the tempo markings by the composer, stretching out Mussorgsky’s Pictures atan Exhibition to twice its normal length. Considering one phrase and the next, he seemed far more interested in drawing out the tonal quality of a given passage than incorporating that passage in the onward march of the piece. He approached the music more like meditation than performance.

    Our very bodies react when we pay attention. At Orchestra Hall I leaned forward, moved my head from one side to the other, cupped my hands behind my ears, closed my eyes. Simone Weil says a poet encounters beauty by intensely fixing attention on something real. So does a lover. Can I do something similar in the inner life, with God? I need not always search for new insights, new truths: “The most commonplace truth when it floods the whole soul, is like a revelation.”

    I realized, on reflection, that I tend to approach life as a sequence rather than as a series of moments. I schedule my time, set goals, and march onward toward their achievement. Phone calls, or any unscheduled event, I view as a jarring interruption. How different from the style of Jesus, who often let other people—interruptions—determine his daily schedule. He gave full attention to the person before him, whether it be a Roman officer or a nameless woman with a hemorrhage of blood. And he drew lasting spiritual lessons from the most ordinary things: wildflowers, wheat crops, vineyards, sheep, weddings, families.

 

(Grace Notes, Philip Yancey より抜粋 翻訳:Google翻訳➕Balten Seijin) 

もう一つの世界からのエコー

 北欧神話、自然、ワーグナーの音楽などの楽しみを通してもう一つの世界の現実に目覚めた C. S. ルイスから、私は健康的なライフスタイルへのアプローチを学びました。彼は、私たちの憧れの中に、その世界の噂だけでなく「事前共鳴」を感じ取りました。彼は、美しさのきらめきや甘さの痛みは、「その物そのものではなく、まだ見ていない花の香り、聞いたことのない曲の反響、まだ訪れたことのない国からの知らせにすぎない」と言いました。

 私は、地上で見逃しているかもしれない手がかりを認識するために、花の香りを嗅ぎ、メロディーを聴く必要があることに気づきました。私の意識は、いのちを自然と超自然、または霊的なものと非霊的なものに分けることをやめ、代わりに、神が意図した統一をもたらすために、それら 2 つを組み合わせる方法を探すようになりました。

 私はどんな楽しみを喜んでいるのだろう?私は自分自身に尋ねました。私は野生に奇妙な興奮を感じます。雷雲が流れ込み、稲妻が近づく中、滑りやすい山の岩場を越えて安全な森林限界まで駆け下りる。トレイルでハイイログマと対面し、自分の決断は一つも重要ではないことに気づきます。選択肢をコントロールしているのはクマの方なのですから。食べるもの、嗅ぐもの、聞くもの、何一つ特定できない異国の文化を訪れるます。ああ、私は家庭的な楽しみも楽しんでいます。グルメコーヒー、高脂肪のアイスクリーム、果樹園で摘んだ桃やブルーベリー。そして今は田舎に住んでいるので、外国映画、素晴らしい音楽、何日も頭から離れない演劇など、都会の文化的な楽しみが恋しい。私は自分の憧れを、別の世界のうわさ、創造主の本質への明るい手がかりとして聞き始めました。どういうわけか、私は自然界を非霊的なもの、神を反快楽的なものとして判断するという欺瞞に陥っていました。しかし、結局のところ、私が快楽を感じる身体のすべてのセンサーを含む物質を神が発明したのです。自然と超自然は二つの別々の世界ではなく、同じ現実の異なる表現です。

 

 

 

 I learned a healthy approach to lifestyle from C. S. Lewis, who had awakened to the reality of another world through such pleasures as Nordic myths, nature, and Wagnerian music. He sensed in our longings not just rumors but “advance echoes” of that world. Flashes of beauty and pangs of aching sweetness, he said, “are not the thing itself; they are only the scent of a flower we have not found, the echo of a tune we have not heard, news from a country we have never yet visited.”

     I realized I needed to smell some flowers and listen to some melodies in order to recognize what clues I might be missing on earth. My attention turned from dividing life into natural and supernatural, or spiritual and unspiritual, and instead I sought a way to combine the two, to bring about the unity that, as I increasingly believed, God intended.

    What pleasures do I enjoy? I asked myself. I find a strange thrill in wildness. Dashing down to the safety of timberline over slippery mountain rock as the thunder clouds roll in and lightning bolts strike closer. Coming face to face with a grizzly bear on a trail and realizing that not a single decision I make matters; the bear controls the options. Visiting exotic cultures where I can identify nothing that I eat, smell, or hear. Oh, I enjoy domesticated pleasures also: gourmet coffee, high-fat ice cream, peaches and blueberries picked at the orchards. And now that I live in the country, I miss the cultural fare of the city: foreign movies, fine music, theater productions that stay with me for days.

     I began to listen to my own longings as rumors of another world, a bright clue to the nature of the Creator. Somehow I had fallen for the deception of judging the natural world as unspiritual and God as anti-pleasure. But God invented matter, after all, including all the sensors in the body through which I feel pleasure. Nature and supernature are not two separate worlds, but different expressions of the same reality.

 

(Grace Notes, Philip Yancey より抜粋 翻訳:Google翻訳➕Balten Seijin) 

苦しみに意味を与える唯一の方法

 時には、苦しんでいる人に私たちが提供できる唯一の意味は、彼らの苦しみは彼らにとっては明らかに意味がないが、私たちにとっては意味があるという確信です。

 私の妻はシカゴ市で最も貧しい人々と一緒に働き、ラサール ストリート教会のプログラムを指導し、誰も世話をしてくれない孤独で見捨てられた高齢者を意図的に探し出しました。私は、彼女が高齢者の生活に身を捧げ、生きるか死ぬかは重要だと高齢者を説得しようとするのを何度も見てきました。そのようにして、彼女は彼らの苦しみを「楽にする」のです。

 ジャネットが一緒に働いていた 90 歳のクライダー氏は、20 年間白内障手術を拒否していました。70 歳のとき、彼は見る価値のあるものなど何もないと決め、いずれにせよ、神が彼を盲目にしたのなら、神は彼を盲目にしたかったに違いないと考えていました。若いときに女の子を見たことに対する神の罰なのかもしれません、と彼は言いました。

 私の妻は、クライダー氏に白内障手術を受けるよう説得するのに 2 年間の説得と議論と粘り強さと愛情を費やしました。ついに、クルーダー氏は同意しましたが、理由はただ一つ、ジャネットが、彼が視力を取り戻すことが彼女にとって重要なのだと彼に印象づけたからでです。クルーダー氏は人生を諦めていました。人生は彼にとって意味のないものでした。しかし、ジャネットは意味を伝えました。92歳になっても諦めなかったクルーダー氏が、その人にとっては大きな違いをもたらしました。ついに老人は手術に同意しました。

 文字通り、ジャネットはクルーダー氏の苦しみを共有しました。頻繁に訪問することで、誰かが気にかけていること、生きるか死ぬか、視力があるかないかは重要だということを彼に納得させました。苦しみを共有するというこの原則は、「傷ついた癒やし人」に関するヘンリ・ナウエンの本の主題であり、おそらく苦しみの意味について私たちが貢献できる唯一の確実な方法です。そうすることで、私たちは痛みも引き受けた神のパターンに従うのです。神は私たちと共にあり、私たちのほとんどが知るよりも多くの苦しみと貧困の人生を送りました。神が苦しみを共有したので、苦しみは最終的に無意味になることはないのです。

 

 

 Sometimes the only meaning we can offer a suffering person is the assurance that their suffering, which has no apparent meaning for them, has a meaning for us.

    My wife worked with some of the poorest people in the city of Chicago, directing a program of LaSalle Street Church that intentionally seeks out lonely and abandoned senior citizens no one else cares for. Many times I have seen her pour herself into a senior citizen’s life, trying to convince the senior that it matters whether he or she lives or dies. In such a way she “graces” their suffering.

    One man Janet worked with, ninety-year-old Mr. Kruider, refused cataract surgery for twenty years. At age seventy he had decided that nothing much was worth looking at and, anyhow, God must have wanted him blind if he made him that way. Maybe it was God’s punishment for looking at girls as a youngster, he said.

    It took my wife two years of cajoling, arguing, persisting, and loving to convince Mr. Kruider to have cataract surgery. Finally, Mr. Kruider agreed, for one reason only: Janet impressed on him that it mattered to her, Janet, that he regain his sight. Mr. Kruider had given up on life; it held no meaning for him. But Janet transferred a meaning. It made a difference to someone that even at age ninety-two Mr. Kruider not give up. At long last the old man agreed to the surgery.

    In a literal sense, Janet shared Mr. Kruider’s suffering. By visiting so often she convinced him that someone cared, and that it mattered whether he lived or died or had sight or not. That principle of shared suffering is the thesis of Henri Nouwen’s book on the wounded healer, and perhaps the only sure contribution we can make to the meaning of suffering. In doing so, we follow God’s pattern, who also took on pain. God joined us and lived a life of more suffering and poverty than most of us will ever know. Suffering can never ultimately be meaningless, because God has shared it.

 

(Grace Notes, Philip Yancey より抜粋 翻訳:Google翻訳➕Balten Seijin)